2008年2月29日金曜日

(2月29日)
 今は、午後2時53分お腹が痛い。昨日の手術は1時から6時、約5時間を要した。1時に手術室に入り、まず左手首の動脈から点滴用の針を通すのだが、研修医が行ったためなかなかうまく入らなかった。次に背中の胸椎の間から硬膜外麻酔のため管を通す作業で、これはベテランの麻酔医が行ったためスムーズに入る。次は、先ほどの手首から睡眠薬を投与され、そこからは全く覚えていない。部屋に帰ってきてからは、まだぼーつとしており多少の記憶しかない。深夜から朝にかけては、お腹と腰の痛みとの闘い。お腹はお臍の上から約25センチ切ってあり、少し動くだけで激痛が走る。
 午前6時血栓予防のために取り付けてあったフットマッサージ器の除去と、枕使用可となる。
 午前8時、酸素マスク外れる。少し楽になる。その後かみさんより少し早く、娘が到着と同時に、初めてベッドで起きあがり、看護師さんに清拭をしてもらう。次は、一度立つ練習をする、頭がくらくらし、同時に吐き気を催す。元々強い貧血があるので、起立性の貧血が起きたみたいだ。 午後12時かみさん到着、娘と交代である。娘は、遅刻して仕事に向かう。今は、ベッドで背中を上げた状態にしている。貧血の改善をするためだ。
 午後2時初の歩行をする。よたよたで、高齢者のようだ。頭のふらつきはないが、お腹が痛い。無事に約20メートルほど歩行。本当にきつい、日に日に良くなっていくと思うが、今日はきつい。
 2時30分、主治医の回診、今朝の血液検査結果、ヘモグロビンもあがってきており、輸血は必要無いとのこと。そして、水の補給の許可もでる。少し怖いが、30CCほど飲んでみた。生きた心地がする。

2008年2月28日木曜日

(2月28日)
 ついに手術当日を迎えた。昨晩は殆ど考えることもなく、又睡眠薬を飲むこともなく眠ることが出来た。下剤を就寝前に飲んでいるため、5時30分に便をもよおしトイレに行く。
6時40分看護師さんに起こされ、血圧と体温測定。7時、約60mlの浣腸をする。即座に便意をもよおすが20分は我慢とのこと。非常にきつい!!
 9時、看護師長さんから個室への移動と、手術後の痛み等のケアについて軽い説明を受ける。昔と違い、硬膜外麻酔等により術後は殆ど痛みが無く、翌日には起きあがったり、歩行も開始するとの事である。その言葉のおかげで少し不安が薄らぐ。
 9時25分、主治医の訪問、「一緒にがんばりましょう」との励ましの言葉、再度気合いを入れ直す。
 10時、トイレシャワー付きの個室に移動する。個室に移動したことにより、プライバシーが守られ、周りに気兼ねなく話をしたり歓談できる事は、ストレスを抱え込まなくてすむので、手術後は快適に入院生活を送ろうと思っている。
 10時40分点滴開始。当分の間点滴にお世話になりそうである。
11時30分家族到着。手術室移動まで2時間を切った。これから向かうのだが、手術後には動けそうにないので、本日のブログはここで終了とする。無事に帰ってこれれば、明日には再開したいと思っている。それでは行って来ます。

2008年2月27日水曜日

(2月27日)
 手術前日、今日は朝から絶食だ。直腸癌と診断されてから酒は断っているので、唯一の楽しみの食事がとれないのは本当につらい。自覚症状は腹痛はなく下血のみなので、食欲は旺盛なので余計に辛い。その代わりに脱水症状を防ぐための点滴を開始している。何処へ行くにも点滴を引っ張って歩く。すれ違う患者さんも同じように点滴を引っ張って歩いている。ようやく病人になったような気がしてきた。午前中は、看護師さんから臍の消毒と、手術後のベッドでのうがいの仕方と、麻酔が覚めだしたときの深呼吸の指導を受ける。
 午後5時、家族を交え主治医より説明を受ける。病名直腸癌、ステージⅡ進行性である。予定手術低位前方切除術+リンパ節郭清、腫瘍部を含め約15センチほど切除、リンパ節を奥まで切除する手術である。合併症として縫合(機械により肛門から挿入した機械と内部からの機械をドッキングさせ自動縫合する)不全 、出血、感染症、腸閉塞等があり、このような場合は再手術をして、人工肛門の造設もあり得るとのこと。只、確率としては5~8%とのことで、先生を信頼して手術に望むつもりである。
 午後6時、麻酔科の先生と対面。麻酔方法は全身麻酔+痛み止めのための硬膜外麻酔の併用である。話を聞いていると不安な部分も多々あり、現実をやっと直視することとなる。今晩は、下剤を飲み、眠れなければ睡眠薬をとの指示もあり、本当に不安な一夜となりそうである。それと、なにも食べていない空腹も手伝い、ペンの走りも鈍くなっている。とにかく明日だ。

2008年2月26日火曜日

(2月26日)
 入院2日目、昨日の夜は、消灯時間が早く周りの入院患者さんも早く就寝しているので、ベッドに横たわってみたが、ベッドの堅さと周りが気になり、なかなか寝付く事ができず、逆に看護師さんに採血のため朝起こされる始末であった。朝食は減塩低カロリー食となったため、ご飯・みそ汁・ふりかけ・ほうれん草・お菓子のような卵焼きであった。明日からは絶食となるため、今日が最後の食事となるので思い切り食べようと思っている。食事がとれる頃には体重は4~5キロ落ちているのではないかと思っている。   入院前に殆どの検査を済ませているので、午前中は胸部と腹部のX線撮影を行う。研修生の女性医師から異常なしとの報告を受ける。
 昼食後、初めての風呂に入る。ボディソープはあったがシャンプーがなかったので、そのままボディシャンプーで頭も洗う。髪がキシキシして変な感じである。3時、かみさんが来る。昨日友人夫婦から頂いたケーキを一緒に食べる。当分食べられそうにないので味わって食べる。実は、父には病名を告げていない。何故かというと、心筋梗塞で入院した際、あまりの心配のため、一晩一睡も出来なかったみたいで、当総合病院の玄関先で後方にまともに倒れ、頭部の裂傷だけですんだのだが、その後頻脈の薬を飲んだことを忘れ、間違えて2錠飲み、逆に徐脈(脈拍1分間に20)となってしまい、食事中に倒れ救急車で入院となった苦い経験があるので、今回は病名を伏せておこうということになった。どこの親も子供が幾つになろうと子供であるという証拠なのだと思う。出来れば退院するまで病名を知らせないようにするつもりである。
 午後6時、最後の食事、明日は朝から絶食のためである。味わって食べようと思ったが、残念ながらあまり得意ではない魚(鮎の煮物)であった。それでも、ひょつとして本当に最後になる可能性が無いわけでもないので、ゆっくり食することとした。現在午後8時15分頃、面会時間も終わり、後1時間後には消灯となる。

2008年2月25日月曜日

(2月25日) 
 ついに入院の日となる。朝から家中が慌ただしい。仕事が代診治療となるため、代診の先生に前回の入院時と同様午前中のみお願いすることとなる。息子が3月2日に私の跡継ぎとなるべく国家試験をを控えているので非常に申し訳なく思っているところである。 午前10時、妻と娘に付き添われ、総合医療センターに向かう。外科の受付にて手首にバーコードの識別のついたタグを巻き付けられ、8階の外科病棟へと進む。ここで初めて担当の看護師と対面、前の入院時にも感じたことだが、看護師さんのできが非常によい。年末に父(82歳)が時を同じくして入院をしていたのだが、その病院の看護師とは比べものにならないくらいよい。心底、受け答え・親切心等自分から出てるものと思われる。患者にとって、一番頼りにしているのは絶えず側にいてくれる看護師であるで、これほど心癒されることはない。リラックスして入院生活が送れれると思っている。
 入院手続きを済ませ、部屋に入るわけだが、最近の病院は昔のイメージとは大きく変わり、大部屋でも完全に個人のプライバシーが守られるように部屋割りがしてあり、個室ではないかと思わせる造りとなっている。これならば周りにあまり気を遣わず入院生活をエンジョイ(私だけかも)できるというものだ。その後看護師さんから手術までの大まかな説明を聞き、入院着に着替えをする。その際、主治医の外科部長から主治医の変更があったことを知らされ、大学病院の救命センター出身の腕のよい頼りになる先生であるとの説明を受ける。私の外科部長先生の印象は、昨日のブログで書いたように、決してよいものでは無かったので、内心ほっとした思いである。そして、新しい主治医への期待が高まっている時、外科部長回診の時間となり、その時に初めて主治医との対面となった。思っていたように外科部長先生とは正反対で、信頼の置ける先生であると直感し、その後の会話にてそれが本当のものとなった。これで安心してまな板の上に乗れそうである。 

2008年2月24日日曜日

(2月24日) 
 入院の前日、朝から快晴、夜中に少し雪が降ったようで、数日前の暖かさは嘘のように冷え込む朝である。昨日までは、心筋梗塞発症から癌発見までの回顧をしてみたが、その中でいくつか病院に対しての疑問や不満を書いてみたいと思う。まず、主治医の善し悪し、腕はよいが不親切である、腕はよくないが親切である、私は迷わず後者を取る。腕がよければよいのだろうが、病というのは精神的ストレスが多分に作用し、優しい言葉・思いやりが目に見えない薬となる。私の場合、今回の外科手術主治医は前者である。部長ではあるが、本当にこの人に託してよいものかと不安に感じているところである。しかし、手術台に上がってしまえば、まな板の鯉であるので運を天に任せるほか無い。2月29日にブログの続きを書けることを祈っている。次に、検査について感じたことは、検査順についてである。通常検査の精度というのは、徐々に上げていくものであって、精度の高いものの後に精度の落ちる検査をする意味がどこにあるのか非常に疑問に感じた。現実に、1月4日に行われた大腸カメラ検査及びその際の病理検査で診断が下されていた。その後の検査は、一連の流れで行われただけと思われる。私が高齢者であったら、検査の途中で倒れていた事も十分考えられる。世間よく聞く話である。術者は真剣に患者の立場に立って考えて治療をしてほしいと痛感した。
 明日の朝いよいよ入院の日となるが、この間色々と考えさせられることが多く、特に入院時に人間性がよく出るものだと感じさせられた。不義理はしたくないものだ。

2008年2月23日土曜日

(2月23日) 今日は土曜日、サラリーマンなら休日なのだが、私は医療関係のため午後2時まで拘束されている。殆どの患者さんが私の入院を知っており、心温まる激励を頂き感激しているところです。本日は、今年に入ってからの検査の実体を回顧したいと思います。
 1月4日、年明け一番に生まれて初めての大腸カメラ検査の日、元旦から憂鬱日々を送り、その日の朝から下剤との闘い、2時間かけて2リットルを小分けして飲む、最初の一杯はそこそこの味、ところが飲み続けていると、さあ大変、全く喉を通らなくなってくる。そして、時間をおいての腹痛、やっとの思いで飲み干したものの、検査をする前に体力を使い果たしぐったりである。この間のトイレ回数7回、出るものは水だけである。 検査は、左横向きになり、肛門からカメラを挿入するのだが、私の前の女性患者さんは検査途中で痛みのためリタイヤとなり、その光景を目の当たりに見ていたため、前に行った胃カメラ検査の苦しい思いが脳裏をよぎる。しかし、検査が進むにつれ、私の場合は何の苦しみもなく、スムーズに進行されていった。そして、盲腸に到達、ここからいよいよ管を抜きながら細部にわたって検査が始まる。私は、苦しみがないため、モニターを凝視していたが、特に異常は感じられなかった。看護師さんが「いよいよ出口で終わりですよ」と声をかけてくれ、このまま何もなく終わりそうだと思った瞬間、ビッグなキノコ状の腫瘍が目に入る。先生から、「これが腫瘍です。ポリープから癌化して2~3年経っているようです。病理検査のため一部を採取します。」との話。覚悟はしていたが、やはりショックは隠せない。服を着替え、改めて先生より今後の事について説明がある。1月11日注腸検査(肛門からバリュウムを注入しX線の検査)、1月17日大腸CT検査、肺機能検査と、体力の無い高齢者ならば、手術の前に倒れてしまうのではないかと痛感する。そして、検査の結果により外科への紹介となり、1月21日外科での診察、直腸診の結果、肛門より約6センチの所に癌組織あり、数パーセントの可能性で人工肛門もあり得るとの説明を受ける。又、その間貧血の改善も試みるが、残念ながら自己血での輸血困難との判定も受ける。
 ここまでが、1月の検査報告、入院前々日の憂鬱な雪の降る楽しいはずの土曜の夕食前。

2008年2月22日金曜日

「こんなことあり?心筋梗塞と直腸ガン」

(2月22日) 今は午後10時、就寝前のほっとした時間です。今日から、数日後に控えた直腸ガン手術闘病記のブログを立ち上げ、私の闘いを記録していきます。その前に直腸ガン発見に至るまでの経緯を記述していきます。
 平成19年12月5日、数日前より胸の痛みと背中から左腕にかけての痛みが出ては引っ込みの繰り返しがある。そして、何時もの様に夕食を済ませた後、ソファーでくつろいでいると突然火鉢で胸を刺した様な痛みと嘔吐、そのまま床に就くも胸の激痛は治まらず、救急車を呼ぶことも考えたが、ここは我慢をして朝まで待って主治医に相談する事を選択。しかし、胸の激痛と嘔吐で一睡も出来ず、3度目の嘔吐で床から起き上がった時、足はがくがく意識朦朧、やつとの思いでトイレに駆け込み嘔吐。ところが、嘔吐のおかげなのか意識が戻り、危機を回避。時間は午前3時30分。この時程時間の経過が長く感じたことは無かった。
12月6日、なんとか一夜を持ちこたえることが出来、主治医に緊急の電話をかけると至急来院せよとの指示。妻と娘に付き添われ診察を受けることとなり、問診、心電図、血液検査の結果狭心症との診断を受けるも、血液検査の結果によっては最悪の事態も考えるとの説明を受け、一時帰宅する。自宅で横になっていると昨夜の痛みは半分ほどに軽減しているも眠ることは全く出来なかった。午後6時ごろ主治医より検査結果の電話を受け最悪の事態との報告。再度来院せよとの指示を受け、重い気分で妻と息子カップルに付き添われ車に乗り込む。主治医の説明によると心筋梗塞の疑いが強く、至急救命センターにて検査受診の必要ありとの事。その足で総合医療センターに向かい、精密検査の結果急性心筋梗塞と診断され、緊急手術となる。深夜午前1時30分手術終了、激痛発症から31時間が経過していた。
 12月7日、手術を終え、ICUに搬送されここからが一番辛い時間を過ごすこととなる。心筋梗塞の手術は、大腿動脈からカテーテルを挿入し患部の血栓を溶解し、その場所にステントと呼ばれる網状の管を装着し狭窄部を保護するまでの手術である。その後は当然動脈を切開しているため動脈の緊縛を行わなければならない。そのことは全く頭になかったため、7時間に渡る地獄の時間が待っているとは夢も思っていなかった。足はパンパンに腫れ、そして痺れと全く身動きが取れない状態は経験したものでなければ絶対に理解できない。二度と再発させないと心に誓う。
 12月9日、一般病棟へ移る日が来た。待ちに待った日である。そしてこの日より心臓リハビリの開始である。手術後の心臓は豆腐のようにもろく、急激に負荷をかけると悲鳴を上げ壊れてしまうそうである。そのために日に日に歩行距離を伸ばし、慎重に運動する必要がある。そして退院前には歩行時ベスト心拍数をだすため、心臓に最大負荷をかける検査が行われる。私のベスト心拍数は108/秒である。〔この心拍数で歩くのは大変〕
 12月12日、入院一週間、そろそろ退院できるのではと思えるほど回復する。しかし、ここで主治医より血液検査について疑問があるとの指摘を受ける。それは貧血がひどく、鉄分が正常値〔66~209〕の最低よりさらに低い27で、ヘモグロビン等も基準値以下との事。考えられることは消化管のどこかで出血があり、精密検査の必要があるとの事。私は、10年ほど前強烈な下血を経験し、その日からずっと下血の日々を繰り返していました。まさしく身に覚えのあることで、ついにこの日がやってきたと覚悟を決めました。まずは、血液検査、便検査が行われ、その結果腫瘍マーカーCA19―9が以上に高く、がんの疑いが非常に高いと診断される。胃カメラ、膵臓・胆嚢・肝臓・腎臓・脾臓の超音波検査、すべて異常なし。残るは大腸、入院中には検査できないとの事で、年明けの1月4日大腸カメラ検査の予約となる。そして、心筋梗塞は12月22日無事退院となる。 ここまでが心筋梗塞発症から退院までの経緯であります。明日は、今年に入ってからの大腸検査の実体をお話ししたいと思います。では、お休みない。